ワイルドな風貌と大人の色気がある大谷亮平さん。
5年前日本でデビューするやたちまち人気俳優の仲間入りを果たしました。
そんな大谷さん、実は小学生から大学生までバレーボールずっと続けて、オリンピックを目指していた時期もあるようです。
大谷亮平は元バレーボール選手!経歴や出身校は?
一時は全国を目指していたほどのバレーボール漬けの毎日を送っていたそうです。
小学生の頃には全国一に!
小学生の時からバレーボールに夢中だったという大谷亮平。
当時の憧れのバレーボール選手は川合俊一だったとのことです。
常にバレーボールのボールを持ち歩くほど熱中して、全国大会で優勝し、全国一になったそうです。
今だから言えますが、バレーにハマったというより、そこは一度入ったら辞められない厳しいクラブでして。当時はスパルタ指導も当たり前。ビンタが半端じゃない勢いで飛んできました。ただ、そういう練習を耐え忍んだからこそ、大阪で1位になって全国大会にも出場できた、と今では思っています。
引用:婦人公論より
厳しい指導があったからこその全国一位だったんですね。
中学校時代:大阪府吹田市の西山田中学
小学生の頃のメンバーがそのまま中学のバレー部だったこともあり、試合に出れば優勝をしていたそうです。
エースでもあった大谷さんは、常にスターあつかいをされていたので、このころに“将来オリンピックに出たい”と考えていたようです。
高校時代:大阪の名門清風高校
高校は、そのままバレーの名門校は推薦入学。
3年生でキャプテンになり、大阪代表選抜チームの主将も任されました。そこまで順調にバレーの道を歩んできたこともあり、どこか天狗になっていたところがあったのかもしれません。全国大会ではレベルの高さを思い知らされ、鼻をへし折られました。
高校の3年間は、これまでの人生の中で一番長く感じられましたね。授業のほかはバレー漬けで練習は厳しく、家に帰っても寝るだけ。キャプテンというだけで理不尽な扱いもたくさん受けましたし、心身ともに追い込まれて、地獄のような毎日でした。
引用:婦人公論より
この時すでにプロのバレーボール選手は諦めていたそうです。
卒業の時は、地獄のような毎日から解放されたっと本気で思っていたようです。
もともとストイックなようでしたが、やはり全国を目指す学校は辛いものがあるのでしょうね。
大学時代:亜細亜大学
今まで勉強せず、バレーボールばかりをやってきたため、進学するためにスポーツ推薦大学入学。
バレー部に入部するのですが、レギュラーになれず、惰性でバレーを続けていたようです。
大学背の頃にはすでにプロのバレーボール選手になる気はなかったんですね。
大谷亮平は元バレーボール選手!なぜ俳優になった?
大学卒業間近になり、教員免許を取るための学校に行こうか、このままモデルの仕事を続けていこうかなど、悩んだ結果モデルの仕事をしていこうと決めたようです。
モデルの仕事をはじめて、韓国の有名CMのオーディションに受かったことをきっかけに韓国ドラマにも出るようになったそうです。
『神弓-KAMIYUMI-』『バトル・オーシャン 海上決戦』出演後、30代後半で日本の俳優デビューという珍しい経歴も歩まれてきました。
おわりに
大谷亮平さんは、韓国でも有名っという認識はありましたが、まさかバレーボール選手だったとは!
バレーボールの解説も楽しみに聞いていきたいと思います♪